いじめという表現に違和感を覚えるのは私だけではないだろう。さらに体罰といういい方に肯定的側面を看るのも同様だ。
昔幼児教育にみる躾で、アメリカでは子供を叱るときに怪我や発育に悪影響が生じないようにお尻をたたく、決して頭をたたくようなことはしない、とよくいわれた。幼児ではなくとも、怪我をしたり例え外見的には見えなくても精神的に障害を残すならそれは、正しく暴力であり傷害事件。教育を逸脱し犯罪行為だ。日本人は生徒、学生に限らず大人しすぎ、すべからく紛争を好まず穏便にが美徳と思っているが、それは相手も同様の徳を持っていなければ成り立たないのである。尖閣や竹島をみても国レベルで同じなのだ。
ようやくいわゆるいじめや体罰を受けた側が警察に告訴に至るようになってきたのは、学校に相談してもなおざりにされ、或いは教育委員会レベルでも不祥事が明らかになることを、委員自身の保身から恐れ内部で隠蔽してきたからである。出るところへ出る強い態度が必要だ。
こうしたときに橋下市長が市立桜宮高校の問題を許せないといいながら、本質に迫るのでなく入試を中止しろと、センセーショナルに自身を目立たせているのはまさに市長らしい。対立点を際立たせマスコミを煽る手法だ。生徒達の気持ちなど全く無視、みんなの党との合流問題にみる発言の流れをみれば同じで、自身のことしか頭にないことが分かるはずだ。
学校側の問題のみならず教育委員会の形骸化がいわれる。委員会の中立性など遅きに失したが考え直さなければならない。かつて東京都中野区で公選制が行われた。しかし特定の組織を持った者の有利が明らかであったりで、いわれていた負の側面が大きく後年廃止された経緯も考えなければならない。
橋下市長は教育委員会への介入を目論んでいるだけで、そこに生徒の姿はない。

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