先日救難飛行艇S-2と、そのルーツ二式大艇のことに言及、その中で横浜市磯子区の根岸に飛行艇の飛行場があったことに触れました。ミナトよこはまといわれる横浜には、海の港と嘗て空の港があったのです。現在の市立根岸中学校、プールセンターあたりがそうだったのですが、現在は全く痕跡もありません。区内の郷土研究団体が10年ほど前に、広く協力を得てプールセンター入口交差点際にその由来を記した史跡表示板を設置しています。
地域には当時を知る人がいて、爆音を轟かして飛行、操縦士や乗員に根岸に下宿している人も多く、時には南方からバナナなどのお土産をもらったこともあるなど興味深い話を聞くことができます。当時小学校高学年だった人が二式大艇に乗せてもらい、東京湾を出てしばらく飛行の後帰った、機内の騒音もすごかったという驚きの話もあって興味は尽きません。
こうした歴史の上に、世界最高性能を引き続き誇る最新鋭の救難飛行艇US-2が活躍していることを、改めて知りたいと思います。
*史跡表示板(全文)
昭和15年(1940)この埋立地に大日本航空株式会社により日本初の飛行艇専用民間飛行場がつくられました。南洋諸島パラオ島への定期航空路が開設されたのです。川西航空機製の97式という大型飛行艇が15年3月6日に根岸湾からサイパン経由パラオに向け飛び立ちました。発動機4基、翼長40メートル、「綾波」「磯波」「黒潮」「白雲」など海や空にちなんだ愛称の優美な巨人機で、サイパンまで10時間、パラオまではさらに7時間かかりました。客席は18あり運賃はサイパンまで235円で東京・大阪間の7倍でした。戦時中は人員と機材すべてが海軍に徴用され南方の島々との連絡や人員・物資の輸送の任務にあたりました。昭和17年には世界最優秀機の名も高い2式大艇が登場しましたが、全備重量24.5トンの日本最大の新鋭機で乗員以外に26〜64人も収容でき、離着水時には家々の屋根をかすめて轟音を轟かせました。97式大艇の最終飛行は終戦直後昭和20年(1945)9月の台湾向け紙幣の輸送で、2式大艇は同じ年11月にアメリカへ試験機として引き渡すため香川県の詫間基地からここに飛来したのが最後です。根岸には飛行艇の乗員や空港関係者が大勢下宿し子供たちに南方の珍しい果物の味を運んでくれました。鳳町の名は巨大な翼にちなみ未来に羽ばたくようにという意味でつけられたそうです。


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